37年の愛情-- 真心のすべてをマリアンに
犬塚道代

 実にジョン・アーヴィングらしい作品。前作の『サーカスの息子』がちょっと違う…という感じだったので、よけいに嬉しくなってしまう。登場人物がまっすぐで、自分の友達のように思える。

 この物語はてんこ盛りの構成になっています。4才の時に母に置いていかれたルースの成長物語、ルースと父親テディとの父娘物語、16才で39才のマリアンと運命的な出逢いをしたエディの恋愛物語、全くうまくいかないマリアンとテディの夫婦物語。

 その中で私が一番気に入っているのは、エディとマリアンの物語。

 小説の最初と最後は2人の愛情物語となっており、相変わらずの濃くて残酷で温かくて切ないアーヴィング小説を美しくまとめている。エディにとってマリアンは人生の全てであった半面 、マリアンにとっては今の生活を捨てるきっかけに過ぎなかった・・・ように見えて、マリアンにとってもそれは人生でたった一つの継続した大切な愛で、エディに愛され続けていることを忘れる瞬間はなかった。遠く離れていても、いつも2人は繋がっていた。江國香織と辻仁成の小説『冷静と情熱の間』のあおいと順正とは違って、離れていても心は繋がっているけれど本当の気持ちが言えなくて擦れ違ってしまう・・・などというもどかしさやイライラがなく、登場人物が自分の気持ちに正直に行動するところがJohn Irving作品のすてきなところです。『ガープの世界』でも『ホテル・ニューハンプシャー』でも、登場人物たちはたとえ傷ついても自分の人生を生きる姿を見せてくれます。

 エディは37年間もマリアンを想い続ける。彼の人生にとってマリアンが全てなのに、いえ、だからこそ、マリアンが自分から会いに来るのを待って、捜し出さないでずっーと待っていた。『ホテル・ニューハンプシャー』の夢見るお父さんと違って、誰かの"子供役"になるのではなく、自力で冴えない作家を続けているところが似て非なる所です。76才になったマリアンとようやく再会を果 たした時、エディ(53才)とマリアンが当然のようにセックスしちゃうのもアーヴィング流。(「注意深く」という表現も絶妙だ。)その描写 も自然で、76才がセックス?というような違和感は全くない。普通、永遠の恋人というのは遠くから思うだけで絶対に会えないとか、実物と離れた幻を愛し続けることが多い。チャールズ・シュルツの4コマ漫画『ピーナッツ』ではチャーリー・ブラウンは赤毛の女の子を遠くから眺めるだけで声もかけられない。島田雅彦『彗星の住人』のカヲルは麻川不二子を忘れられずに今も行方不明だ。このように生身の人間同士で再会させてしまう小説は珍しいし、しかも、セックスまでしてしまう。想像していたのと違う…とガッカリするようなことはなく、37年前の気持ちがそのまま表現されて二人とも幸せな気持ちになる。

 再会の場面のさりげなさもいい。かつての記念日でもなく、絵になるロケーションでもない。鉄道の線路際にあって、電車が通 るたびにうるさくてたまらないエディの家。訪ね方ももったいぶっていない。お間抜け一歩手前の普通 っぽさがいい。

 エディとマリアンの人生を賭けた愛に比べると、ルースの恋愛と結婚はもどかしくて見ていられません。アランとの恋愛は歯切れが悪いし、ハリーとの結婚もうまく出来すぎていて(この辺のうまくいきすぎは『サーカスの息子』風ですね)、いまひとつ感情移入することが出来ません。また、マリアンの夫でルーシーの父親であるテディは何を考えているのか分からず、好きになれません。生涯を不幸な主婦と不倫して堕落させることに費やす一方で、ルーシーとのスカッシュの試合に負けて、あっさりと自殺してしまう。情けないかわいらしさもなく、体温40℃・血圧200クラスの(対象は何であれ)熱い男…という訳でもないのが中途半端に感じてしまう。

 いろいろな楽しみ方が出来る小説ですし、「写真」「記憶」といった言葉を鍵に高尚なことが山ほど語れそうですが、シンプルに上巻の巻頭と下巻の最後だけを読む--エディとマリアンのストーリーだけを読む--だけでも充分に満足できる作品です。そう、実にアーヴィングらしい作品なのです。