永遠の不良

宮丸裕二
(慶應義塾大学大学院)

怖い話、恐ろしい話の類いは、古今東西どこの世にも尽きないもので、世界中の民話に含まれるそれを見ても、日本の怪談や、1980年代を病的に席巻したスプラッター・ホラー映画を考えてみても、これは時代や社会の変化を問わず人間が普遍的に求める物語体験の一種である様に思われてくる。一連の恐怖譚からなるジャンル、ゴシック小説をもまたそうした一例に加えて考えてみることも可能であろう。つまり、18世紀末葉の英国に発祥して間もなく隆盛を極め、当時としては異例の速度で欧米世界へ波及したこのジャンルは、人間が普遍的に持つ恐怖物語への集団的な希求の典型的な雛形を示しているという訳だ。しかし逆に、ゴシック小説が他ならぬ 英国の、敢えてこの時代に隆盛を見たことに偶発事以上の意味を求め、この現象を特定の社会的・文化的な歴史文脈の中に位 置づけることも十分可能であることを示してくれるのが『ゴシック小説を読む』である。一見、入門書の体裁を持つ本書であるが、実はもう一つ、専門書の側面 をも持つのはそのためである。

本書は、1998年に四回に渡って行われた岩波市民セミナーの講義録をもとにしており、従って、全四講の構成をとる。まず、第一講「ゴシック小説の誕生」では、ゴシック小説勃興前夜において予め準備されていた新たなる美の概念、すなわち「崇高」の概念を、グランド・ツアー、廃墟趣味、ピクチャレスク風景といった文化現象から説明する。こうして新たに発見される「崇高」との因果 関係からゴシック小説の第一号が登場するのである。続く第二講「ゴシック小説の大流行」では・・・と、順になぞって行くことはあまりやりたくない。その内容はそもそも明快なる入門書である本書を読めば分かることであるし、稚拙なる註釈によって読者の楽しみを取り上げてゆくことが書評者の役割ではあるまい。またこうして本書の構成と内容を一つ一つ紹介してみても、著者である小池滋を評することにはつながりそうもない。第一、こう言っては角が立つが、グランド・ツアーも、ピクチャレスクも、崇高も、少なくとも文学に専門的に携わる者にとっては、今や常識と化したのであり、万が一専門家にしてこれらの知識に欠けるとしたら、評者同様、大急ぎかつこっそりと本書を入手して学ぶべき様な周知の項目である。しかし、古株の方には懐かしく、また新参者には誠に驚くべきことで想像することさえ難しいが、国内外を問わずゴシック小説など文学の研究対象の内に入らないという時代は実に長かったのである。これはいわゆる文学の正統からこのジャンルが完全に外れており、その隆盛以来ずっと軽薄な流行小説として軽蔑されていたからである。そうしたそもそも亜流文学としてあった、ゴシック小説の受容背景は知っていても損ではあるまいと思われる。それ故、上記の専門用語が最初から専門家の常識であった訳ではなく、かつて文学はゴシック小説を含むことのないままに文学だったのである。今や常識と化したこれらの言葉を、そもそも常識と化さしめたのが他ならぬ 著者小池滋であり、その著者が再度ゴシック小説について講ずるという意味合いを本書は持っているのである。

してみれば、まず第一義において入門書である本書が、最良の著者によって書かれていることがまずは速やかに納得されようし、専門家とはいえ、本書後半において展開される様に、広く欧米文学へと考察対象を拡げてゆけるだけの学識は現代の研究者になかなか求め難いものであることは実は当の専門家が誰よりも良く知っている。また、重要なことに、専門家から専門家へ知識を敷延させた段階で小池滋の仕事が終わるのではないということをも、この改めての再講義が伝えている。アカデミズムの世界はその財の生産者と消費者とがほぼ一致して持続する、考えてみれば不思議な社会であるが、いかな閉じた分業社会も根本的に自立的であり得るはずがないことは天空の国ラピュータに皮肉られている通 りである。本書が提示するのは、知の社会還元というアカデミズム存続への一可能性である。とりもなおさず、それはひとたび機会が与えられたならば、「読める本」を書くことの重要性であろう。本書には字の読める者にとって、判読不能なことは一切書かれていない。本講演はユニークにして時間を超過したら特急券払戻をして貰えたのであるが、同時に明確なルートと終着点をも不文律に保証してくれるのが本書である。とんでもないあさっての方向へ連れて行かれる書のなんと多いことかを思うならば、これも重要な利点であろう。

他方、専門書としての意義であるが、ここで小池滋がゴシック小説について新たに語り直すことの意味は深い。『嵐が丘』の主人公二人はなぜ結婚しなかったのかという問題に興味を持つ専門家は少なくないであろう。本書は例えばこの問題について説得的な新説を展開する。またマルキ・ド・サドをゴシック小説群に算入して良い理由、政治小説やSFその他のジャンルへの拡がりの可能性、芸術至上主義の一世紀先んずる黎明について、斬新にして唸らせる諸々の議論が、途切れることなく現れ、既存の文学の再検討を迫るのである。全てゴシック小説の考察という導入をなくしては成立し得ない議論であることを見れば容易に推測される通 り、著者がそもそも日陰にあったこのジャンルに光を当ててその存在を広く紹介し続けてきた意義も実にこの点にあるのだろう。看板にある紹介本としての体裁をただの一文においても崩さない本書ではあるが、その本領は実はこちらの側面 にあり、こうした議論の新地平を開くがための、前提となる形式としての入門でもあったのだと知るのである。事実、読者の種類を問わず最新鋭の独自の議論へと誘う本書の読後、読者全てにとって、文学は更にその輪郭を変えて映るのである。

何もゴシック小説に限らないことで、探偵小説、都市論、お得意の鉄道や絵画との関連での文学考察等々、小池滋が日本の英文学において開拓した分野は数限りなく、いずれも今は当然の分野でありながらかつては存在しないも同然だった。英国史上二番目に有名な作家ディケンズの名にしてからが、小池滋以前には、決して真面 目な英文学史には事実上いないのだった。かくも「なかった」ものを「あらしめる」ことの評価は、現在「当然に存在する」だけに、なされ難いのである。ところで、ゴシック小説をはじめ、これらの分野に手をつけた当時には全て亜流だったのだから、当然ながら、小池滋は不良と位 置づけられるべきである。しかし、これらはいずれも現在では研究者の核心的な話題であり、いわば常識になっている。過去四十年の英文学研究史を再点検すればすぐに分かることであるけれども、仮に小池滋がいわゆる正統であったなら、今日にはアカデミズムとしての英文学などとっくになくなっていると考えるのは評者だけではあるまい。あるいはなくなっても一向に差し支えのないようなものとして残存したかも知れない。絶えず傍系に属する立場に小池滋が身を置き続けたことはほとんど幸運と呼んで良い出来事で、このことが幸いしてその学問分野を実りあるものとして存続することを助けたと考えていい。ここに、短期的な不良が長期的に見て誰より正統であったという逆説を我々は目の当たりにするのである。

単にゴシックについての膨大な事実記録と知識の集積だけが整理されないままに今日の常識の内実を形作っていたならば、なんとつまらないことかを思う。むしろ、ゴシック小説というジャンルを他のあらゆる怪奇談・恐怖譚と共に十把一絡げの普遍現象として片づけて平然としていないところ、学問以前にはそれぞれが等価値な記録として雑然と散在する情報を体系化して、既に教養と認められたものに劣らぬ 価値を持つものとして示すところに、評者はアカデミズムの勝利を見る。長年に渡り不変である著者の執筆姿勢を見るにつけ、教養が多様化して分立し、他の無数の知識・情報と無差別 に併存する当今の流れをとうに予期していたと考えざるを得ない。そのジャンルの重要性を広く認めさせて、更なる意義を提示する素地を作り続けること、ものごとに対する一つの「分かり方」を提示することで、ひいてはまだないものを存在させること。一見入門書の体裁を取る本書ではあるが、ここに言う「紹介」という行為には実にこれだけのアクティヴなことが含まれているのであり、『ゴシック小説を読む』の読者はなおそのスリリングなプロセスの一局面 に立ち会っているのである。ここに来て、上記の入門書・専門書という分類がもはや無効にならざるを得ない。小池滋が紹介をしている間は、同時に専門における最前線にいることを意味するのであって、往年の不良はなおまっしぐらに走り続けている最中なのである。ちなみに小池滋が永遠の不良であってもなんら問題はない。なぜなら小池滋はジェイムズ・ディーンと同い年なのであるから。