伝説と伝記、要注意!!

千木良悠子
(女優・作家・慶應義塾大学文学部4年)

この本は、ジョン・ウォーターズの『ピンク・フラミンゴ』という映画などで人気を博した、ディヴァインという俳優の伝記である。彼のマネージャーだったバーナード ・ジェイという人が書いた。私はこのディヴァインという人物について全然なんにも 知らなかったので、『聖ディヴァイン』について何か書けとお達しがあったときなんの本なんだか見当もつかず、聖という名がつくからには、キリスト教にゆかりのある人物の話なんだろう、森の中でさまざまな魑魅魍魎と老翁・ディヴァインが魔法対決 を繰り広げる、愉快痛快ゴシック・ロマンスに違いない、とワクワク本屋の小説コー ナーに行ってみると、そんな本は存在しないじゃないか。あれおかしいなとよく聞くと、伝記だったのである。

私は伝記って、あんまり読んだことがなくて、唯一気に入っているのが、ニコ、ニコ わかりますか? あの、ベルベット・アンダーグラウンドにいた暗黒な女の人ですが、 あの人の伝記は面白いです。何しろ、出てくる脇役たちがみんな60年代を代表する スターたちで、みんなニコの一夜の恋人で、ほかにもファクトリーの舞台裏が覗ける、とか、フェリーニの『甘い生活』に関するあれこれ、アラン・ドロンに孕まされた 子供の話、いろいろな興味深いオプションがついて3枚千円、みたいなそんな伝記な んですから。もうどうにでもして、この伝説の重みに乗っかられて果ててしまいた い、みたいなそういう気分にさせられます。おまけに、伝記を書いてる著者がすごく ニコの悪口を書き立てるんです。「この頃彼女は何も考えてなかった」とか「名声が 手に入ればよかった、スターと寝たいだけだった」とか、「この後に及んでまたヘロインに手を出し」とか「このアルバムは最低な代物で」とか「こんな大事なときにまたヘロインを」。とにかく、その悪口がね、平たく言えば「でも、そんな彼女が好き」「そんなヒロシに騙されて」、著者がニコにそこはかとなく寄せる愛情に溢れて いるようにみえるのですね。そりゃ、そうだ。人の長い一生を本にしようってくらいだから、よっぽど思い入れがないとそんなことやりません。

 で、今回私が読むことになった『聖ディヴァイン』も、そういう愛情に溢れている のかなと思いきや、そっち方面はあんまり目立たない。著者はバーナード・ジェイという、 ディヴァインのマネージャーをやっていたイギリス人で、ディヴァインの才能に惚れ 込んでマネージャーに立候補したクチだからもうラブ&ラブ!と弾けているに違いない、と期待してみるとなんだか裏切られる。文章から滲み出るのは、ディヴァインへ の愛情とかじゃなくて、どうやってやつを売り出すかとかギャラのこととか、とにかく実務的なことばっかり。(そのかわり章の間に挟まれているディヴァイン語録はテンションたっかいんだけど)まあ、実際に毎日顔を突き合わせていた人間の書くものって、そういうものなのだろうなと納得する私。マネージャーの仕事って大変だもの ね。私の劇団でも制作の人が一番大変そうだよ、いつも。そしたらバーナードは私に 向かって頷いちゃう。「うん、本当に苦労したんだ、何しろディヴァインのやつ、い くら仕事を入れても無駄遣いばっかりするしね。ディスコのドサ回りなんかじゃ、かなり稼げたんだけどね。それもあいつ、鰐皮のハンドバッグとかに使いやがってまったく。」愚痴を垂れつつ、ショーのギャラを列挙するバーナード。ついでにドサ回り先の地名を列挙するバーナード。「映画の交渉もいつもいつもギリギリまで何も決ま らなくてね、レコードの印税も大分ボラれちゃったしさあ。」ちょっと、ちょっと、 待って、待ってよバーナード。私が読みたいのはもっと、ディヴァインの生い立ち系、ドラアグ・クイーンやってるのが両親にばれたときの涙の物語とか、ディヴァイン の恋愛物語をかなりディープに、とか、こんな伝説のスターと付き合いがあった!と か、ジョン・ウォーターズ監督とこういうふうに揉めた、とかさあ…。 「え?いやあ、俺の仕事はビジネス・マネージメントだったんだけど。」 ああ、そうすか。

誰か他人の中に物語だとか、伝説だとかを求めたがるのは、文系人間のよくやる下品 で我侭な行いなのかもしれないわ、と私は少ししょんぼりする。『ヘア・スプレー』 でお母さん役をやるディヴァインの劇的なチャーミングっぷりを見ていると、「あ あ、ピンク・フラミンゴ時代から十数年、人生の辛酸を舐めて演技の深みを獲得した ディヴァインが、反体制デモに参加する娘を昔の自分を見るような母性に満ちた眼差 しで見やる、なんて二十三重の物語を孕んだ含蓄ぶかいシーンなのかしら」とかなん とか、私は勝手にいい話を作っちゃって勝手に思い入れをもって涙してしまうけれ ど、ディヴァインから見れば「ナニソレ!超・迷惑!私スターよ!! 辛酸なんか舐め てないつうの!」と怒りたくなるような物語作りなのかもしれない。彼は彼なりに 「自分はこういうふうに見られたいな」というヴィジョンがあるんだろうし。ディヴァインはいつまでも「ピンク・フラミンゴ」の下品で最低な女、というイメージが ついて回って、それはディヴァインとバーナードにとっちゃとんでもなく迷惑なこと だったらしいけれど、でも役者が周囲に勝手なキャラクター設定をされてしまうの は、当然のことで、だってキャラが立ってたほうが覚えやすいもの、だから役者は 「そういう見られ方なら、まあ、よし。」という妥協点のようなものをある意味探さ なくちゃならないことになる。

伝記がかかれる場合には、このキャラクター設定、あるいは伝説設定という装置がよ り現実に肉薄して機能する。なんてね。たくさんの人が、ディヴァインの人生を勝手 に物語にしちゃう。伝記を書いたバーナード。読む読者。それから、こういうふうに 見られたいなと日々画策しながら生きていたディヴァイン。いろんな人の物語がそこはかとなく戦って、伝記は形成されている。別 にそれがいいとか悪いとか、全然思っていないけど、でもね。

私の勝手な伝説作りのおかげで、当の本人が迷惑してるんだったら悪いことしてる な、と思う。伝説作りは、自分独りの中でやるならとっても気持ちがいいけど、関係 のない人にとっては不気味なものであることが多いから。 だから、人の作った伝説によりかからなくても伝記を楽しんで読める大人にとって は、『聖ディヴァイン』は爽やかで心地よい本なのだ。ディヴァインという、他人の センチメンタリズムをどうしようもなく喚起してしまう芝居をする(と私には思え た)の伝記は、ビジネス・マネージャーのバーナードによって書かれなければならな かったのだろう。それが、バランスちゅうものなのかもね。