Graduate Seminar in Theatre Studies at Keio University

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主体化のパラドックス――文化の視点から―― 
Paradoxie der Subjektivierung in kulturellen Räumen

 

主体性がパラドックスを前提としてしか発揮されないことは――望むと望まざるとにかかわらず――自明であると言えるでしょう。それは、例えばフロイトの自我論から容易に想像できます。 人は、自分が欲するもののために、労を惜しまず頑張ることができる一方、それが時に行き過ぎることで、何らかの損失を招くこともあります。 フロイトはこの極端に相反するものを「生の欲動」「死の欲動」と呼び、両者は個々人の無意識の次元において対立関係にありながら、不可分でもある自我の特徴を解き明かそうとしました。 自分が自分らしく生きようとする積極的な生き方は、潜在的な次元では、時に自己を破滅に追いやるほどのリスクを背負うものなのです。

 

このパラドックスが西洋の重要な悲劇作品において見受けられることを指摘し、古代から現在にいたる悲劇の新しい特徴を論じたのが、ドイツの演劇研究者ハンス=ティース・レーマンです。 『悲劇と劇的演劇』においてレーマンは、西洋演劇の重要な登場人物「アンティゴネー」、「フェードル」、「カール・モア」(シラー作『群盗』)が必然的に規範を乗り越えて葛藤するありようを、自己に内在する「越境侵犯」として捉えました。 人間が他者や世界との関わりにおいて葛藤するのは、外的な問題だけでなく、自己に内在する越境侵犯的傾向ゆえでもあります。 悲劇は、自己の欲求と破壊の矛盾の多様性を見て経験することに意義があると、レーマンは主張しました。

 

興味深いことに、自己のパラドックスは江戸時代の歌舞伎・文楽の作品にも見受けられます。主人公は自分が大切と思うものを守り、自分の「役目」を果たそうとするあまり、自らの命を捨てることを潔しとします。 これは、『仮名手本忠臣蔵』の赤穂浪士、この作品の女性版である『加賀見山旧錦絵』の尾上、『摂州合邦辻』の玉手御前に確認することができます。 この積極的な自己犠牲は――福沢諭吉が明治初期に『学問のすゝめ』で封建社会の弊害として批判したように――近現代の視点からみれば、不条理であり、回避すべきものですが、これらの作品は現在も上演され、観客を魅了しています。 主体が矛盾し、歪み、分裂するありようは、現代人の関心をいまだ掻き立てています。

 

これらの例から察するに、自己のパラドックスが演劇において積極的にテーマ化された点において、ヨーロッパにも日本にも大きな差がないようです。 個人主義が発達したヨーロッパであれ、個人よりも全体の調和が優先されがちな日本であれ、主体が良くも悪くも矛盾する点は共通しています。 他方、その内実において、主体の矛盾はそれぞれの文化に固有の特徴を示し、その点において日欧では文化的な相違も見出されるでしょう。 本シンポジウムでは日独の研究者が日欧の演劇・舞踊を例にして主体のパラドックスの内実と、それに関連する文化・社会の背景について発表し議論します。 それによって、異なる文化における主体の問題がどの点で共通し、どの点で異なるのかを明らかにすることを目指します。

 

Flyer

 


日時: 2019年1月26日(土) 11:00 ~ 16:30
会場: 慶應義塾大学三田キャンパス 南館5階 ディスカッションルーム
主催: 科研プロジェクト「越境文化演劇研究――異他の視点からの演劇文化論」
    慶應義塾学事振興資金プロジェクト「横断領域としての文化と人文学の研究」

 

11:00 ~11:20
 平田栄一朗(慶應義塾大学教授)
 挨拶と導入: 日本の近代化における主体化のパラドックス
11:25 ~ 12:05
 エファ・ホリンク (ギーセン大学講師)
 喜劇的で悲劇的な主体――演劇と「象徴的因果性」
12:10 ~ 12:50
 宮下寛司 (慶應義塾大学大学院博士課程)
 土方巽との遊戯にあるねじれ――川口隆夫のダンスパフォーマンス「病める舞姫をテクストに」
14:00 ~ 14:40
 三宅舞 (慶應義塾大学非常勤講師)
 回想・幻想による主体化?――太田省吾「小町風伝」について
14:45 ~ 15:25
 ゲラルト・ジークムント (ギーセン大学教授)
 言語、身体、主体――悲劇と喜劇のはざまのルネ・ポレシュ演劇
15:40 ~ 16:30
 全体討論

*本シンポジウムはドイツ語で行われます。各発表の日本語抄訳を用意します。
*予約不要